税務コラム
(前回の続き)
加えて、会社経営者を含む一般国民の税に対する「認識」ないし「感覚」を問えば、当然とも言うべきか、脱税にも近いような節税を望む「考慮」、「意識」ないし「願望」を持ち合わせているのが大半であるのが実態であり、実際に殆ど例外なく、咄嗟に「半分ぐらいだったらいいかな」という「冗談めいた希望」(答え)が返ってくるのが実情です。そうだからと言って、そのことが、被告人とされたA氏が「脱税」をI関与税理士に依頼したり、指示した何らかの証拠を示すものではありません。この世間話レベルのI税理士と納税者(被告人A氏)との対話を、裁判官が、「被告人は関与税理士に脱税を『概括的に指示』した」としての逋脱認定をしてもいいのでしょうか、甚だ疑問です(疑わしきは納税者の利益にというのが租税法領域における原則です)。
因みに、検察官(検察庁に告発した査察部の職員を含めて)の取調べ段階で、被告人ら(A氏及びその妻C氏)は、繰返し以下の事実を述べています。「(I税理士の処理ミスが原因で)査察部による強制調査が行われた翌日の平成27年11月26日、I税理士が被告会社を訪問し、「社長(A氏)、決算の時の(翌期に繰り延べた)1億円、社長にお願いされてやったって言っていいですか?国税局が怖いので…(税理士)資格を剝奪されます」と、I税理士は、被告人らが依頼してもいない翌期への繰り延べを、依頼されていたかのような口裏合わせを懇願しているのです(C氏の被告人ノートより)。しかしながら、この検察側にとっては不利と思われる事実(I税理士が主導して利益1億円を翌期へ繰り延べた)は、裁判では証拠として採用されていませんでした。
この1億円は、既述しているとおり、平成25年3月期の決算修正で計上されていた買掛金(約9,795万円)及び未払金(約630万円)が、I税理士の採る期中現金主義によって経費処理されていたため、平成26年3月の決算修正前までの試算表の損益計算書上は、本来の当期利益より約1億426万円少なく計上、表示されていいました。したがって、期末には前期分の損金としていた約1億426万円を振替える必要があります(結果として益金が増加することになる)が、最繁忙期の中で、I税理士はそれを失念して気付くことなく、また、そのことを被告人らに理解可能な形で説明できなかったことから、それまで利益は約1億円と聞かされていた被告人らは、申告期日直前の平成26年4月28日になって突然に利益が約2億円になると関与税理士であるI氏から告げられ、驚くと同時に強い不信感を抱くに至ったと述べています(税務代理人を務める筆者がこの事実を知り得たのは被告人らへの接見禁止が解除されてからです)。
I税理士は、法人税法22条4項の、「一般に公正妥当と認められる会計処理の基準に従つて計算」しておらず、期中現金主義によって会計処理し、なすべき期末の振替処理を失念した結果、「当初算出していた利益額約1億円」ではなく、決算整理をする段になって突然に顕現した形の追加の約1億円を加算した合計約2億円の利益をどうにかして減額したいという強い意思を持っていた背景があります。また、本判決は、強引に「推認」によって被告人らに逋脱認定し、かつ、「概括的な認識」があったとして逋脱認定をしていますが、後者についての、似て非なる概念として、刑法一般には「概括的故意」が措定されており、租税刑法固有の概念である「概括認識説」とはその考え方を異にします。本判決において概括的故意説と概括認識説との考え方を折衷、併用することには大いに疑問、議論があるところです。
「租税法の規定は租税に関する固有の領域において、民刑事の一般法に対して優先的に適用されるべきものとしてほぼ完結的な法体系をなしており」(東京地判昭和61.3.1)、租税刑法における制裁法規においては、これに先行するいわば第一次的規範としての租税実体法の指導理念(租税法律主義)に遵い適用すべきものです。 札幌地裁判決に見られる、かような推認による事実認定が認められるとすれば、逋脱額やその計算根拠を明らかにされることなく、納税者(国民)は、課税当局の意のままに、納税義務を課され、その意に沿わないことで納税義務者は告発され、その告発内容そのままで検察が起訴し、裁判所は、「推認」なる都合のよいタームを用いてそれを認容し、判決することにもなり得ます。本件事件は、元来、I税理士が犯した判断、処理ミスを課税当局が、「はじめに結論ありき」の下、その非違性や悪質性の程度を誇張して、かつ、それを納税者に転嫁したことから、収拾不能となり、ついには証拠不十分のまま、逋脱(脱税)事案として検察庁に告発したところにその本質があると思われるところです。
そのため、査察部を含めた課税当局の主張には、税務代理人に「通則法74条の11第2項の調査の終了の際の手続としての説明を行った」などとする、明白な嘘や虚偽主張が随所に見られ、また、取り調べ段階においては、法令違反や論理破綻及び背理を伴う認定、判断が目立ち、それらを内容とする検察庁への告発は、曖昧かつ杜撰であり、検察が、それらの嫌疑につき自白を得るべく行った被告人らの逮捕、拘留は、その期間が370日にも及んだのです。一方のI税理士は、捜査当局から事前の免責が約されていたか、専門家責任を放擲し、また、論理的には、当然、共同正犯としての刑事責任が問われる筈ながら、それもなく、何らの懲戒処分すら受けてこなかったことは、当時、非常に奇妙に思われました(後に、令和5年1月27日から税理士業務禁止の財務大臣の懲戒処分を受けた)。いずれにしても、司法当局にとって都合の悪い事実は徹底して捨象、排除して、それらから目を逸らし、耳を塞ぎ、また、それらの事実がなかったかの如く完黙する司法の姿勢には大いなる疑義を持つものです。
或る日刊紙の過ぎし年の夕刊に「知らぬ顔」と題した記事が掲載されていました、曰く、「…(略)『誤審の有罪認定に供された証拠なるものはみな、検察・警察(本件では査察部)が権力を濫用して寄せ集めたジャンクばかりである。』誤審の理由や責任を語ろうとしない裁判所についても、疑問を投げかけた。例えば、車の運転を職業とする人が事故を起こせば仕事を失ったりする。医師も誤診をすれば医療過誤だと追及され、ばく大な賠償金を負うこともある―。なのに『真実究明の義務違反』を犯しても、裁判官はおとがめなしなのか、と。裁判官は、証拠に対する自由な判断を認められている。『疑わしきは罰せず』という鉄則に忠実な法服の人も少なくないだろう。ただ、誤判やその疑いが強い事件への『沈黙』は、開かれた司法とは言い難い。…(以下略)。」これは、少なからぬ国民の共通の認識ではないのでしょうか。
2018/01/08掲載の税法違反被告事件の裁判を傍聴して No.1から2024/03/13掲載の「いわゆる理由なし通知処分に係る裁決の批判的検証その32」までの税務コラムで繰り返し述べてきた一連の事案は、「法の不備」を基因として納税義務者がした「消費税の(合法的)回避」憎しを端緒として、租税行政庁(査察部)が、「初めに結論ありき」の下、「国策捜査」したものの、証拠不十分のまま強引に検察庁に告発したと考えられます。したがって、起訴後に開示されたうちの直接証拠は全て根拠が薄弱、内容は曖昧そのものであり、間接証拠には虚偽記載ないし作出、捏造されたと思われる文書(証拠)も存在し、将に、「権力を濫用して寄せ集めたジャンク」ばかりという有り様でした。
このように、事実上、何処からの牽制も受けることのない、また、行政救済や司法救済も働くことのないアポリアとなっている現行の租税救済制度は、争訟制度を含めて、法制度を抜本的に改正し、租税に関する専門的な法律及び行政領域の紛争を扱う(仮称)租税裁判所及び租税弁護士制度の創設が俟たれ、当該制度なくして、租税行政庁による恣意的解釈ないし専横の問題は解決しないと思われます。行政庁が課税処分等を執行する際に租税法解釈を行うことになりますが、その解釈は法の執行が前提となっていることから、いわゆる「有権解釈」であり、事実上、課税当局が租税法を解釈し執行する実態にあります。
それにも拘らず、税務署を代表して調査に臨んでいる筈の調査官の行政指導は、後の争訟段階では、「税務調査官の税務調査時における発言、見解は公式見解を表示したとの評価に当たらない」として、平然と、前言を翻し、責任回避を図っており、それが許されている現状があります。「有権解釈」そのものは、裁判所による判決と異なり、直接国民一般を拘束するものではありませんが、その解釈に基づいて法が執行されることになり、いわゆる「公定力」を持つことから、事実上、国民(納税者)を拘束することになるのです。ともあれ、標題のテーマにも関わる一連の行政処分としての事案の発端となり、その際には、租税行政庁を鼓舞し、法的側面から後押しする役割を果たすこととなった本件法人税等及び消費税等違反被告事件は、仮令、innocent(無実)ではないと判断されることがあったとしても、not guilty(無罪)との評価がされるべきものと思われます。(おわり)
文責(G.K)